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河童工房('◇')の憤懣本舗

天が君を立てるのは民の為

・・・我が国の民主主義?は2675年前から



16代 仁徳帝
BC 313~BC339在位。・・・
昔は秋と春の2回齢を重ねたという。
▼民のかまど

https://www.youtube.com/watch?v=KbeqYy8iXyk

聖帝(ひじりのみかど)

古事記を竹田恒泰 さんが 現代語に訳されていて
学研から
「現代語 古事記」
(書籍コードISBN-978-4-05-405075 価格1700円)
として刊行されています。
古事記下つ巻にある 仁徳天皇 條に
「民のかまど」
として有名な話が載っています。
(p248~P251)

公共事業

大阪府門真市近傍
大阪市鶴見区~寝屋川市~枚方市までの7里28㎞に
茨田堤や茨田三宅(屯倉)
八尾市には三宅という地名がありますが
仁徳帝の御代に築かれたとか。
帝の時代には
今、大阪 で 河内と言われるあたり
土地の名称も河の内 であるように
まぁ門真市や大東市 などは「河内湖」
と呼ばれる湿地帯でして
耕作ができなかったそうです。
それで 帝は 難波の堀江、
今の大阪市天満を流れる川
(旧淀川 天満~京橋あたりNHKなどがある)
まで=運河を掘削し河内湖にたまった水を大阪湾へ流したとか。
地図と首っ引きで確認してみると、どれだけ
広範囲をやったのか? が わかると思います。

▼記紀

古事記では
『この天皇 (すめらみこと)の御世に、
大后(おほきさき)石之日売命(いわのひめのみこと)の御名代
(みなしろ=皇族が私有する労働者集団)として、
葛城部(かづらぎべ)を定め、また太子(ひつぎのみこ)
伊邪本和氣命(いざほわけのみこと)の御名代として、
壬生部(みぶべ 皇族子女教育係)を定め
また、水歯別命の御名代として、
蝮部(たぢひべ)を定め大日下王(おおくさかのみこ)の
御名代として、
日下部(くさかべ 苗字でありますよね)を定め、
さらに 若日下部(わかくさかべのみ)の御名代として、
若日下部わかくさかべ)を定めたまひき。




また、
秦人(はたひと=応神天皇の御代に朝鮮半島南部から渡来した集団)を
役(えだ)ちて茨田堤(まったのつつみ)と、
茨田三宅(屯倉 まったのみやけ)を造り
また丸邇池(わこのいけ)、依網(よさみ)池を造り
また難波の堀江を掘りて海に通はし
また小椅江(をばしのえ=天王寺区 辺りの運河=河堀通りか?)を掘り、
墨江(すみのえ 大阪市住之江区あたりの港 今ならさしずめ 大阪南港近辺)の
津を定めたまひき。』
日本書紀では
“1.河内平野における水害を防ぎ、

また開発を行うため、難波の堀江の開削と
茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。
(これが日本最初の公共大規模土木事業とされています。)
2.山背(=山城 やましろ) の
栗隈県(くるくまのあがた、
京都府城陽市西北~久世郡久御山町)に
灌漑用水を引かせ
茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。
3.和珥池(わにのいけ、奈良市?)
横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築造した。
4.灌漑用水として感玖大溝
(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、
広大な田地を開拓した。
5.紀角宿禰を百済へ遣わし
初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。
原文:(遣紀角宿禰於百濟、始分國郡疆場、具録郷土所出)”
とあります。
つまり
「当時の産業は農業が主ですから民を食わせるため=国力増強に
こういう耕作地開拓を行った。」
ということです。
WikiPedia 仁徳天皇
▼「民のかまど」

あるとき 天皇(すめらみこと)は高津宮の高楼に
お登りになりました。
そのとき四方の国土をご覧になる (国見) と
“ 国中(くぬち)に炊煙が立ち上っていない。
皆貧しいのだろう、今から三年(みとせ)の間尽く
人民(大御宝 おおみたから)の
課と役 (みつぎ=朝廷へ納める産物 と えだち=労役)を
免ずる”
と仰せになりました。
そのため宮殿は破れに破れた状態雨漏りはする 風は通り抜ける。
それでも全く修理する気配もない。
やがて...。
3年経過して帝が国見をなされたとき、国中に炊煙が満ちていました。
「高き屋に登りてみれば煙(けぶり)立つ 民のかまどは賑わいにけり。」
と詠まれ、
そこでようやく
『人民(おおみたから)が富んだ』
と思し召し課と役 を課されました。
こう言うわけで、百姓(おおみたから)は栄え
役使に苦しまなくなりました。
そのためその御代を称えで聖帝(ひじりのみかど)の世
と申しあげるのです。
そして大后に申されるには
”君は百姓を大本とする。
かつての聖王(ひじりのみこ)は
一人でも飢えたならば
己を責めたという。
いま
百姓が貧しければ朕も貧しく
百姓が富めば朕も富む。
百姓が富み朕が貧しいということは未だない“
と宣られたそうです。

君民共治
天皇は人民 国民 百姓(もものかばね)を
「大御宝 おおみたから」
とお読みになります。仁徳天皇の御事績や言葉から 帝にとって
もっとも大事なものは「民」であることがわかります。
つまり、
我が国は建国当初から 民が主体の
国民本位の政治や統治=君民共治が行われてきた
と、いうことなのです。
中国や欧州の王朝では 君が主体の民は
王、皇帝の所有物で
君主主体の専制独裁政治が行われてきたので
それとは対照的です。
国民本位で律と令による政治を民主主義と呼ぶならば
我が国は建国以来2千年以上民主主義を続けてきた
世界最古の国家
(王朝交代がなく続いている国では最古
君主国では世界最大の人口を有する)
と言えるのです。
記紀に記された事柄は絵空事と いう指摘もありますが
日本書紀は当時の対外向けに
時の政府が出した公式文献であり
史実でないという証拠も提示されていません。
しかしながらこれらが
正史として記述され
理想的な天皇(為政者)の姿をして千年語り継がれてきた】
のは まぎれもない事実なのです
迷信 と 忌避するのではなく
伝説や口伝、伝承には、なにかしら目的がある
とみるほうが自然ではないでしょうか?
それがひいては命を救うこともある。
例えば地名に蛇や龍(竜)がつくところは
ジメジメした湿地帯で排水が悪く
水害が度々起きていたりする為に
命名したりしているのですから。

by kaorukusano_1 | 2015-11-14 17:08 | 本来の意味
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しわかみの 真心秀眞と成るときに 花咲く御代の春や来ぬらん 皇=しわかみとともに 國民の心が本当の【誠】となれば 美しい光で満たされた花咲く春が 必ず来るのです。 (ほつま つたゑ)

by kaorukusano_1
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